「 テスの思い出 」 ( 10 ) 
ー 小学生の頃 ー
 


 最近、自分は何であの半年間、寄宿舎に入れられてしまったのか、ちょっと疑問に思ったので、おふくろさんに聞いてみた。

 妹が産れた後、やはり、さばに当たって入院したり産後の肥立ちが悪く、通学の手段がなかったそうだ。
 きっと最初からバス通学も危険だったのだろう。おやじさんの仕事も、送迎時間帯に合わなかったんだろう。

 おばあちゃんも、そこまでは力になってもらえなかったんだろう。
とにかくおふくろさんが死に掛けたのだった。
そんな事情があったのだ。わたしもまたバケツガニと言われ暴れん坊で恐れられてもいたのである。
 妹が、ベビーベッドの柵の中にいるのが興味深くて仕方がなかった。ケガとかさせていたら大変だったとも思う。

 夏休みも終わり、バスで通うようになり、また、テレビをみたり、テスと遊ぶ生活になった。

 学校が早く終わるので、学童保育に通った。
妹は小さいし保育園の送り迎え、僕は小学生、きっと我が家は、この時期が一番忙しかったと思う。両親は働いていた。

 学童には、ひー坊もいたかもしれない。
勉強を見てもらったとき、普通の学校と盲学校とでは、勉強の進み具合が違うのだと、担当の先生が言っていた。
 ちょっとショック。
おふくろさんが学童に迎えに来てくれるのは、一番最後だった。
だいたいが、自分だけ残るか、もう一人一緒にいるかだった。
 なんか居辛い感じがするのは何故だろう。また、寂しくもある。
もしかしたら、先生たちも、この子が帰ってくれたら、家に帰れるなって思ってたのかな?まあいらぬ心配をいまさらしてもはじまらない。
 ここの学童保育で、ひまわりの作品を作った。
折り紙で船を沢山作る。船の内側に黄色いつるつるした面が出るように折る。そしてその船を輪になるように沢山貼ってゆく。真ん中に茶色の色を塗って完成。

 学童の横が空き地になっている。木切れや草を使って秘密基地を作って遊んだこともあった。
 
 ある日カマキリを見ていた。
ムシャムシャと片方のカマキリが、もう一方のカマキリを食べてしまった。そしたら、最後にお腹の中から、針金みたいな虫が出てきた。その針金みたいなむしがうねうねっと動いているだけで、全部きれいに食べてしまった。

 この学童の裏手に木切れがあって、滑り台代わりい遊ぼうと思ったら、釘が出ていた。
ぐさりとお知りに釘が刺さってしまった。
病院にゆき洗ってもらい、破傷風の予防注射をしてもらった。
太ももにするっと注射をしたのにけっこう驚いた。
長い針が痛くもなく太ももに入ってゆく。

 これが大腿四頭筋短縮症の原因になるのだろうか?

 学童でもたのしく遊んだのだった。


 盲学校では、全盲の子もクラスにいた。
あけみちゃん、馬場君、畑君、栗原さん、原田君、何人のクラスだったんだろうな。見えるこも半分以上いた。

 木造の校舎の方で、足踏みオルガンで歌をうたった。
カブトガニの甲羅とか飾ってあった。人体模型もその頃から見ている。

 死に池と呼ばれる、沼みたいなところに出かけたことがある
。遠足だったのだろうか。
そこでカラス貝と言うのか、大きな貝を見つけた。それを持って帰ってきた。木造校舎の上の方から投げて貝を割ったことがある。とても恐ろしいことをした感じだ。割れた貝を見に行くのが怖かった。いろいろ他にも、訳もなく暴れまわっていたのかもしれない。思い出すと冷や汗が出る。

 この木造校舎で、点字も習った。

 この校舎で何かの集まりの時に、お琴を弾いてくれた先生があった。長い曲を全部覚えていて弾いてくれた。すごく印象に残っていた。

 新しい校舎は床のすべりもよくてきれいだった。
そこで、勉強が始まったのだろう。
アキノキリンソウのように背の高い先生。とてもやさしい先生だったけれど、いろいろな事情で交代になった。

 ある日、泥棒が入ったらしくて、クラスの部屋の中にうんちがしてあった。泥棒の置きグソって言うのはあるそうだ。アキノキリンソウ先生が片付けていた。印象に残っているのである。

 「さいた さいた さくらがさいた」

 みたいな文章から、読む練習がはじまったと思うけれど。
全盲の点字の子と、弱視の墨字(点字に対してこういう、普通の字)の子と、一緒に居たような気もするけれど。
 点字の子の方が読むのが上手だったかも。

 そう言えば、電気をかける昔の機械、丸い大きなボールのよな
あの装置を昔見たことがある。
 理療の実習室か何かだったんだろうか。

 またクラスの中に、ちょっと知恵遅れの子供もいたと思う。

 原田君は、ロボットみたいに動きが固かった。表情もなくて、話しかけるとロボット見たいにたどたどしく応えた。この子は、賢そうだった。落ち着きのない子もいて、時々声を上げたりする子もいた。
原田君と一緒に帰ったこともあった。原田君のうちは盲学校の坂を下りて駄菓子屋さんの前の方の一群の市営住宅街だった。平屋の古いうちが多いところだった。

 まあ、とりとめもなく、思い出すシーンの羅列ですが。

 中学二年生のとき、一週間夏休み九州に泊まったとき原田君に会いに言った。 覚えて居てくれて喜んでくれた。
原田君は身体が硬くなって、身体の動きもままならぬようになっていた。そういう進行性の病気だったんだろう。ほとんど自分では歩けなくなってしまっていた。

 そのとき、寮に畑君がいたのであった。
昔のように、ぼくが一緒にあばれようとするので戸惑っていた。
また回りにもうんと気を使っていた。畑君は僕よりも一歩も二歩も先に大人になってしまったんだなーっと思った。

 小学校のこの木造校舎での思い出。
トイレットペーパーというか便所のちりし。

 紙粘土の工作を教えてもらったのだろうか。紙を水に溶かすして糊と混ぜると紙粘土になる。
それで、紙を水にとかして遊んでいた。その水で溶いた紙。これがちぎってというか、すくって投げるとそれだけで、木造校舎の壁にピッとくっつくのであった。
木造校舎の黒い壁に、白い紙の玉がピッとくっつく。おもしろそうでしょう。
それを授業中に発見したんだね。

その日の午後は、なぜそこに居たのか分からない。きっと寮での生活のときだったのかもしれない。午後は、バスで通うようになった頃には、居るはずがないからね。

 その部屋で、チリシを水にぬらして、壁に貼り付けるのがおもしろくて、横の壁だけでなくて、天井にもやってみたらうまい具合に着いた。
落ちてこないのだ。これはおもしろい。

それで、ついつい乗ってきて、沢山天井に貼り付けた。おもしろいなー。
アキノキリン草の先生から、男の先生に担当の先生が代わっている。
という事は、二年生かな。

 わたしの所業をしげしげと眺めて、怒るでもなく、棒でもって天井の紙を落とし始めた。これが、着けるときは簡単だけれども、その紙が乾いてくると、はがれずらいようだ。

 おふくろさんがやって来た。 

あとで、聞く所では、先生に呼び出されたとのこと。
天井に張り付いた紙を剥すのに苦労したとのこと。

 ああいうのってのは、全然、本人は悪いと思ってないのね。
このような方向に行くとは、思ってもみないことであった。
そのときは、あまりのことに、怒られた記憶がない。

 怒られる方が、きっといいのだろうと思う。
なんだか苦労をかけてしまったなーっと言う印象が残り、その方が後味が悪いのだった。

「テスの思い出」 その十  ー 小学生の頃 ー
( 2006.7.10 by makio-ym )


      

ソーラさんとアスカさんののん気な一日 第二部 「 テスの思い出 」