「 テスの思い出 」 ( 9 ) 
ー バスにのって ー
 


 いよいよ、小学生。
友達は、ひー坊もあー坊も高槻小学校へ。

 僕は目が悪かったので、盲学校へ行ったのだった。
盲学校は、七条にあった。
 
 丁度その頃妹が産れたのだった。
昭和40年三月のこと。

 そうそう、小学校に入る前の思い出としては、よく熱を出して苦しい思いをしたことだ。しかし、その苦しさは、あまり印象には残っていない。
夜中に、父母に背負われて、お医者さんへ行き、一度は大きな病院に行ったこともある。その部屋は、なんだか薄暗い部屋だった。高い天井の古めかしい病室。確かに、芋のてんぷらを食べたのを覚えてはいる。
 その夜が、そんなに大変な夜だったとは、後から聞いた話だった。
抗生剤を、打ちすぎて、あるとき効かなくなって熱が下がらなくなったらしい。

 おふくろさんが入院したのは、いつなのだろう。小学校に入る少し前なのかもしれない。妹が産れたあと、産後の肥立ちが悪かったようで、さばに当たってアレルギー性のショックを起こしたらしい。
あとで、

「お花畑みたいなところに行った」

とおふくろさんが言っていた。
あまりいい傾向ではない。

 これは、きっと、妹が産れた三月はじめから、わたしが、小学校に通いはじめる
約一ヶ月の間の出来事なのだろう。おやじさんに手を引かれて、病院へ行った。産れたばかりの妹は、きっとおばあちゃんが見ていてくれたんだろうか。
病院に行ったのは覚えている。その日おふくろさんに会ったのだろうか。どうだったか?

 さて、そんな中、盲学校での一年生がはじまった。
それで、始めは、盲学校の寄宿舎に入った。
親から離れての生活なのである。
 結局盲学校というのは、だいたいが数が少ないから、通うことが出来ないのだ。友達もみんな、寄宿舎にいた子が多かった。
バーンと畳の部屋。十二畳くらいかな。中学生のおにいさんかな、年上の人が一緒だった。
 そのころ点字を習っていた。
点字で「め」の字は、六つある穴を全部打つのだった。
点字板で僕がでたらめにどんどん打ってゆく。それで出来上がったのを、お兄さんに読んでもらうのがたのしかった。ぜんぜん意味のない音の羅列。

 点字紙と言うのは、いい紙で厚みもある。それで手裏剣の作り方を教えてもらった。点字紙を二枚別々に折って行ききっちりと組み合わせると手裏剣が出来上がる。沢山つくって誰もいないとき、広い畳の部屋で投げた。

 また、点字紙は紙飛行機を作るにも最適だった。丸っこい飛行機と長めの飛行機を作った。丸っこい飛行機の方が性能はいい。よくとんだ。長い方はかっこよかった。羽の両端をぎざぎざにたたんで錘にすると安定がよく、よく飛ぶようになった。長い飛行機は、先を尖らせてもいいしちょっと折り曲げて平らにしてもいい。反転させて開くと、イカみたいな形の飛行機になるのだった。これまた味のある飛び方をするのだった。長い紙飛行機、先をちょっとだけ平らにして、両翼の先をギャザーに折り曲げたものが、マイオジジナルだった。スパーアロー号と名前をつけていた。
(レッドアローは秩父ゆきですね。)

 そういえば、ボール紙のグライダーを作ったこともあったし、竹ひごに薄紙を張ったゴム動力プロペラの飛行機を作ったこともこれはずいぶんあとかな。
まあ、今は寮の話だった。

 寮はなんだか人が少なくて、さびしかったなー。
あの食堂は、どこにあったのか?寄宿舎の方だったと思うが。
ご飯によくごま塩をかけて食べた。

 お風呂は、どこで入っていたんだろう。覚えてない。
夜部屋を出てトイレに行くのが暗い廊下を歩かないといけないので怖かった。

 寮には、他の部屋に畑君とか別の子もいたと思う。
きっと一緒に遊んでいたんだろう。

 週に一回週末には、山の家に帰るのだった。
テレビが見れないのが一番困ったのだと思う。鉄人28号や鉄腕アトムなど見れない。

 寄宿舎はいやだと言うので、一学期でやめた。夏休み家に帰っていたらきっともう行きたくなくなったのだと思う。

 でも、お友達は、ずっと寄宿舎にいる子もいたんだよな。
今考えると、小学校一年生と言うのは、だいたい午前中だけで勉強が終わってしまう。だから、昼からはほとんど寮で過ごしたんだと思う。
 確かに、学校での勉強もあるけれど、残りのほとんどを、寮で過ごしたのだった。よく飽きなかったと思う。

 寮は、やめたので家から通わなくてはならない。
そこで、通学の仕方を教えてもらって…。
高槻小学校のバス停からバスに乗るのだ。そして七条で降りる。
そしてそこから、歩くんだ。

 その頃は単眼鏡も知らないし、まぶしいのにサングラスも知らない。
まずバスがどこ行きなのか分からない。
だから一生懸命に前のプレートを見る。でも確たる自信はない。
高槻小学校前から乗るときは、行く先がひとつだけだからいいのである。
問題は、帰りのバスだ。七条のバス停には、何種類かの行き先のバスが来た。高槻小学校ゆきのバスに乗らなくては帰れない。それこそ必死である。

周りの人に聞いたり、運転手さんに聞いたりね。

そう言えば当時は、まだ時々ボンネットバスが来ていた。
あれ、めずらしい形のバスがあるなーと思ったものだ。


 ある日のこと、盲学校の帰り道、バスに乗った。いつもの通りちょっとバスに乗ったのだった。
ところがそのバスが行く先が違っていた。
ついにやってしまったか。そんな冷静なののではなかった。
ほとんどパニックに近い。なきそうだ。小学校一年生か二年生だからね。

 バスは、いつものところで真っ直ぐ行かずに曲がってしまった。
山路(さんじ)ゆきに乗ってしまったのだった。見知らぬ町並みを通り過ぎてさびしげなところについた。
だいたいのバスは乗っていればもとの場所に戻るんだけれど、戻らないらしい。戻る方法を運転手さんにきいて、中継点のそのバス停で待った。
それでバスの本数がそれほどあるわけでもないのできっとだいぶ待ったのだろう。やっと、教えてもらったバスに乗って、もう必死。
後ろの扉から乗るのだけれど、一旦前の方にまわって扉を開けてもらって、

「このバス何ゆきですか?」

と聞くのである。

前にも言ったけれど、ドモリもあったので、急ぐと余計に言葉がでなくて

「こ、こ、こ、ココココ…」

と言いたいことがなかなか出ない。

それでも、今度間違ったら、帰れなくなってしまう。

ニワトリみたいに、コココ…って言いながら、何とか聞いてバスに乗って
さっき、バスが曲がってしまった場所まで帰り着いた。
後は、ここから、真っ直ぐに行く、高槻小学校前ゆきにのればいいんだ。
いやー大冒険だった。

 あるときは、乗ったのはいいのだけれど、お金をなくしてしまったらしい。
あの時も気が気でなかった。バスに乗り間違えた訳ではないのだから、高槻小学校には着くのだろうけれど…。
本当に心配で、高槻小学校に着く前から、運転手さんの所までわざわざ聞きに行った気がする。

「 あのお金なくしちゃったんだけど、乗っててもいいですか? 」

「 お金ないの? しょうがないな。まあとにかく。乗ってなよ。 」

そんな感じで運転手さんは言ってくれた。

 この一言で、どれだけ救われたことか。
あーー、乗っていてもいいんだな。半分泣きそうだったというか、もう泣きながらきいたのかも知れない。とにかく降りなくていいらしい。

 そしたら、途中で、誰か知らないけれど、50円玉をくれた人がある。

これは、

「一応タダで言いと運転手さんが言ってくれているのに、この50円玉はどうすればいいのだろうか?」

と戸惑った感じがした。

 50円玉一個、昔の50円玉は、今の500円玉くらいの大きさがあった。
充実感と存在感のある硬貨である。駄菓子屋で50円あったら使い出があった。いまさら、これをもらってもなー。持っていれば、安心だろうとくれたのかもしれない。よく分からないのでもらって、降りるときに払った。

 北九州市立盲学校は、七条のバス停を下りて、大きな通りを渡る。
この大きな道は、ずーと続いていて、あろうだ の市場の方にも行くし、八幡製鉄所の会社の前も通るらしい。メイン通り。当時は路面電車も当然のように走っていたのだった。

 この広い通りを渡るのに信号機があり、「通りゃんせ」の曲が流れる。
ちなみにバス停のある角のはす向かいに、おばあちゃんと、中学二年生の時に寄ったあんみち屋がある。当時知る由もない。
 そこからちょっと歩く、左手に市民プールがある。もう少し行く。

右手の駄菓子屋があり、上る坂道がある。この坂道を登ってゆく、お墓にさしかかる。路の両側にお墓が広がっている。道なりに行くとカーブ。そのまま行っても寄宿舎の方に出れるけれど、ゆるやかカーブのところの石垣に階段がありここを上ってゆくと校門に近かった。
この階段を上りきると、その角にすばらしい砂置き場があって貝探しに余念がなかった。

 学校から駄菓子屋さんまでの坂道。そしてそこからの直線距離。バス停までけっこうな道のりだった。
よく覚えているのは、大丈夫かなっと帰るのだけれど、坂を下りた駄菓子屋さんのあたりで、トイレに行きたくなって、また坂道を登って行ったことがある。
坂道を登りながら、間に合うだろうかと、苦しみながら必死に登った。
そんなことでは、バスに乗って無事に帰りつけるはずもない。

実際、バスに乗ってからトイレに行きたくなることもあった。
バスの中で必死にトイレを我慢すると言う試練もあったのだった。
出る前に行けばと思うけれど、そうも都合よくは行かないものなのだ。

 友達と、お墓のところで遊んだこともある。
かくれんぼをしていて、どこからともなくコツと石が頭に当たった。
どこからか落ちてきたのだろうか?

 自分としては、バチがちょっと当たったんじゃないかと思っている。
世の中には不思議なことがあるのだ。


「テスの思い出」 その九  − バスに乗って −
( 2006.7.9  by makio-ym  )


      

ソーラさんとアスカさんののん気な一日 第二部 「 テスの思い出 」