お隣にはおじさんの家(おやじさんのお兄さん)。トコちゃんがよく遊んでくれた。ひこちゃんは少し年が離れたお姉さん。
おじさん、おじさんのお嫁さん(みよこおばさん)、とこちゃん、ひこちゃん、そしておばあやんが住んでいた。
おやじさんのおかあさんである。
ついでに、おじさんの家の犬はスピッツでスージーと言った。
おばあちゃんの名前は、マキさんという。それで、わたしは、makioというのである。
シンプルなのです。
マキおばあさんは、わたしが、確か高校の三年生のときに、78歳で亡くなった。1976年頃かな。
もう、30年になるかな。
おばちゃんは、よくバナナをくれたものだ。
おやじさん、おふくろさん、ふたりとも出かけることが多かった。
夜、一人で留守番することもあった。
すると、おばあちゃんが頃合を見てやってきてバナナをくれたり、お菓子をくれたりした。
ちなみに、当時バナナはご馳走だったのだ。大事に、前歯で削りながら少しずついただいた。バナナかじったところについた前歯の跡を、ちょいと確かめながら大事に食べた。
あと、おまんじゅうとからくがんやお菓子も持って来てくれた。
おばあちゃんに、物語を読んでもらったりしたことは、あまり覚えてない。
よく、
「もう来年には死ぬるかもしれん」
と言っていたのを覚えている。まめまめとした感じのおばあさんだった。
おじいちゃんのことは知らない。
十次郎さんと言うそうだ。おやじさんがまだ産まれてまもなく亡くなったとのこと。それからは、おばあちゃん一人でおやじさんたち兄弟を育て来たことになる。
おじさんはおやじさんと10歳年が離れてる。多分おばあちゃんは、わたしにバナナをくれていた頃は昭和39年頃で、65歳くらいになる。
そして東京へ行ったのが昭和43年ころは69歳。
今だったら、まだまだ若くたっていいはずだけれど。
あの時代には、60を超えると確かに老人だった。80歳は超高齢者という印象があった。
当時から、おばあちゃんは
「もう死ぬるか知れんねー」と孫のわたしに繰り返し話していた。
東京に行ってしまって、おばあちゃんとも会えなくなってしまった。
中学二年生の頃だったかな、夏休み九州に遊びに行って、一週間お世話になった。一度行っておきたかったんだと思う。
おばあちゃんも元気だった。
その頃は、わたしたちが住んでいた隙間風の家もまだ残ってそこに建っていた。
おばあさんは、そちらで暮らしていた。あの一週間、おばあさんと布団を並べていろいろ話しながら眠った。物語をする人ではなかった。いろいろこまめに四方山のことを話していた。テスのこととか、いろいろ。
そのときもそう言えば
「もう死ぬるか知らん」
と言っていたな。
おばあさんはよく仏様を拝んでいた。
その仏様は十次郎さんだったのだなー。
また、亡くなった子供さんたち。
おばあさんは五人の子供を産んだが、小さな頃に亡くなった子供もあった。
おやじさんとおじさんだけが大きくなったのだった。
そして、その仏様は、その子供たち。
いつも着物でいた。仏様にまんまを上げていたのを覚えている。
それで、よくお寺さんに出かけていた。お坊様の説法を聞いてくるのだろう。
歩いて坂道を降りて出かけてた。
お寺さんで、落雁(らくがん)をもらってきて、それをくれるのだった。
そのころ、僕は、落雁が楽しみだった。香ばしくて、少し甘さを抑えた味が好きだった。
テスのこともよく見てくれた。
中学二年生の夏、そのときだろうか?おばあちゃんとお出かけをした。
それで七条のプールへ行ったのだった。その後、七条の交差点の角のあんみつ屋に入った。
それで、店を出て、信号を渡って、バス停のところまで来た。そのとき、おばあちゃんが日傘を忘れて来たことに気づいたので、取りにいったことがある。
それからは、高校受験などで自分自身の回りが慌しく、九州のこともおばあちゃんのことも忘れてしまっていた。
そして、おばさんが亡くなった。
着物を何枚も重ねて着たり、昔の写真を、全部アルバムから剥してしまったりしたと聞いている。
認知症という事なのだろう。
いつでもきちんと着物を着て、毎日仏様にお題目を唱えて、よくお寺さんへ出掛けて行った。一昔前のお年寄りのきちんとした生き方がそこにあるのだと思う。
マキおばあちゃんには、ホントにかわいがってもらったのだと思う。
ソーラさんとアスカさんののん気な一日 第二部 「 テスの思い出 」