「 テスの思い出 」  ( 3 ) 
ー 隙間風に家 ー
 


 両親がどのような経緯で、この九州は福岡の地に住むようになったのか。
 それは、きっと、おやじさんがホームページを作ったら、その展開の中でどこかで触れられるのだと思う。そちらに譲りたいし、楽しみでもある。

 わたしが生まれた昭和34年。その四年ほど前に結婚して、この地に住むようになった。

 今年、結婚50年記念。金婚式とのこと。めでたい限りだと思う。
波乱万丈。
 おやじさんたちが結婚した昭和30年(1956年)は、まだまだ戦後、戦争の傷跡が残る時代だったと思う。

 子供の頃の住所は小倉区山路(さんじ)と言っていた。
今では、八幡東区になっている。

 このあたりは、小高い山が多くて、人家も、山の斜面にポツリポツリとたっていた。我が家も坂道を登ったところにあった。
夜家の前からは、向こうの山の人家の灯りがきれいだなと思った。山の向こうを線路が通っていたのだろうか?汽笛の音も遠く聞こえて来るのだった。

 おやじさんのおじさんの家の隣に住んでいた。
どこからか、家を移築してきたそうだ。どこかの家を解体して、おじさんの家の隣の空いている土地に建てさせてもらっていたそうだ。

 職場で、お年寄りの話を聞いていると、戦後間もないころ、材木をただで分けてくれる人があった、という話を聞いたことがしばしばある。
きっと向こうにとってはいらないものなのだろうか。

 それを、組み立てて、住もうというのだから、器用なものだなーと思う。実際、おやじさんは大工仕事などは、好きで器用なのである。わたしは、太鼓の台なら作るけれど、基本的には、苦手である。そういう意味、すごいなーと思うのだった。

 昔の家というのは、だいたいがボロだった。
その家も隙間風がヒュウーヒューと抜ける。壁とか隙間があった。電気は、裸電球。昔は、ヒューズが切れると、取り替えなくてはならなかった。今では、ブレーカーを上げるだけでOK。

 九州は、よく台風が通るのだった。
近くの家で、風で屋根が持ってゆかれたらしい。などと、ふたりが話していることがあった。
 子供は、親の話すのを、聞き耳を立ててよく聞いているものなのだ。何でも、窓から風が入るとまずいらしい。
それで、台風が来るとなると、窓の外側から。バッテン(×)印に板を打ち付けたりしてた。これで大丈夫だろう。

 隙間風が入るくらいなので、台風は、ビュウービュウーとそれこそ、家ががたついた。停電にもなるので、ろうそくをつけたこともたびたび。台風が来るというのは、子供心に恐ろしかった。
しかし、台風の時は、大人たちがいつもと違って、隣のおじさんも、おばさんもみんなで、いろいろ話して、なんとはなしににぎやかだった。それが、楽しくもあった。

 その家は多分、四畳半の部屋と、三畳ほどの突き出しがあった
か?まさかなかったか?どうも思い出せない。部屋が二つに分かれていたような気もするし、その三畳の部屋で、食事をしたり、遊んだりした気もする。
 きっと仕切りは上の鴨居の所だけで、下はつながっていたのかも知れない。こだわってすいません。どうも記憶がカチッとはまらないのでこだわっています。

 家の中になぜか鯉のぼりを飾ってくれた。
大きな鯉のぼりを鴨居(壁だけよん)あたりの壁一面にぐるりと貼ってくれた。うれしいね。目がデッカい。そのとき、この四畳半と三畳の境の鴨居のような壁に貼ってくれたのを覚えている。直接窓の上ではなかったんだ。

 この懐かしい、原風景とも言うべきう家の写真があります。
ひさしぶりにスキャナを起動させようかな。古いアルバムってやつは厚紙の台紙に直接のりで写真が張ってあるから、はがせない。
昔切手を封筒からはがしたように、ゆげに当てて根気よくやれば剥せないこともないだろうけれど…。
こりゃ台紙ごと、スキャナにのせて。取れるかなー。

 テスの写真もあるし、ペケ(その頃名古屋のおばあさんとこにいた犬、かまれたことがある)の写真のある。



我が家の写真見てみて



 「 テスの思い出 」 その三 ー 隙間風の家 ー
 ( 2006.7.9 by makio-ym  )


      




ソーラさんとアスカさんののん気な一日 第二部 「 テスの思い出 」