「 もう、ミニダックスには戻れない 」





 こがらしの季節がやってきた。
もう冬のはじまりである。
 秋晴れの空も過ぎて、12月にはいると空は、寒々と垂れ込める雲で覆われる。

 ストーブの出番である。部屋の中は、そんな訳であたたかだが、窓の外は、雲でおおわれている。部屋の中から見ていると、雲でおおわれた空は、一見、温かそうにも思えるから不思議だ。

 でも外は寒い、この空は一日中続くのである。
夕方には、雪になるかもしれない。

 この季節になると、ふと、不思議な気持ちにとらわれる。なんだろうか?

 何かを忘れているような気がする。
忘れてはいけないのに……。
 そう、忘れていること、そのものを既に忘れてしまっている感じだ。

 思い出せばそれで、いいのかと言えば、果たして、どうだろうか。あまり思い出さない方がいいような、そんな気もする。きっと思い出したところでどうにもならないのかも知れない。

 もしかすると既にWarmloveloveNO.1にかかってしまっていたのかもしれない。あれは、自分の中の思い出すら書き換えてしまうのであった。そうなると自分の信じている過去が実はそうでないというパラドックスに陥る。あるいは、本人は、それでも、ぜんぜん苦労もなく日々をすごして行けるのだろう。何せそれがすべてなのだから。

 しかし、わたしは、そうではない。
確かに、何か大切なことを忘れているのである。

 普段は、封印されている思い出が、この季節になると、ふっと、その封印の魔法の力が弱まり、その一端がほつれるような気がする。

 窓の外には、ちらちらと雪が舞いはじめた。
きっと、今夜は少し積もるのかもしれない。
石油ストーブが赤々と燃えている。
部屋の中は温かい。ここからは、窓の外の雪さえも、実はあたたかいのではないかと思える

 そう、今は、おぼろげによみがえってくる記憶がある。

 そうだったのだ。わたしは、確かにミニダックスだったことがある。
 

 昔は、わたしはミニダックスとして普通に暮らしていた。

 いまでは、とても信じられないことである。
しかし、夢でも幻でもない。事実なのである。

 ソーラさんやアスカさんと同じように、からだも小さかった。ふさふさと豊かに自慢の毛皮のコートも着ていた。
 耳!そう、耳は、すばらしく美しかった。頬にふんわりと風のようになびいていた。ふさふさと耳をおおう金色の長い毛が貴族の貴公子のようであった。 

 そして、毎日が夢のように過ぎていたのである。

 ソーラさんとアスカさんと、同じようにしゃべることが出来た。普通に話せる。犬の言葉が分かったのである。と言うか、それしか知らなかった。人間の言葉なんて何の用もなかった。それで充分、何も必要がない。

 彼女たちふたりの一緒に、日向でな転んでのへーっとしているのもたのしかった。

 その頃は、鳥の言葉も理解することが出来た。
近くの犬たちの話し声も聞くことが出来た。どんな話だったかまったく思い出すことも出来ないのだが、なんの意味もない世間話のようなたわいもないことだった。しかし、いまとなってはそのことがとても貴重なことに思えるのである。

 太陽にあたり、風の匂いをかいで、時にそこらを散歩もした。電信柱にたわいもなくオシッコをかけて回った。

 食事も、好き嫌いもなく、ソーラさんとアスカさんと一緒にガツガツと先を争うように食べたものだ。例のカナダらいような器だ。そう、きっとあれだ。

 一緒に、話し、語り、笑い、歌い、遊び、時にはケンカもし、悲しみも分かち合ったものだ。そして、寒い夜には、ヘビがとぐろを巻くように固まって眠った。これで、けっこう温かいのである。
そのような日々に何の疑問もなかったのである。
 ソーラさんとアスカさんたちとホントに理解しあい、時間を分かち合って来たのである。

 それが、いつの間にか、わたしは人間になってしまった。自分が努力したのだろうか。頑張ったんだろうか。そうかも知れない。

 または、ミニダックスの神がいるとしたならば、その怒りに触れたのかもしれない。

 そのことも、いまとなっては、さっぱり見当がつかない。気づいたときには、わたしは、人間として生きなければならないことになっていた。だから、きっと、ミニダックスだったころの記憶は普段は封印されているのだろう。誰が封印しているのだろうか?

 魔法使いの仕業なのだろうか。そんなものがいるとしたならば、それを倒して、魔法を解かなければならない。

 しかし、そうでないことは、分かるのである。
何故わかるのか? それは、自然の力なのである。
どうしようもないことなのだ。
太陽に沈まないでおくれと言ってみてもはじまらない。月にもっとそばにいてくれと言っても美しい月は夜が明ければ太陽の元に消えてしまうのでる。

 それは自然に分かることなのである。
わたしが、人間になってしまったことは、そのように自然なことなのである。

 人間になって、初めの頃には、実は、時どき、わたしには、不思議な力が残っていて、ミニダックスの姿に戻ることが出来た。
 ソーラさんとアスカさんとも、懐かしく語り合うことが出来た。ふたりは、懐かしく、わたしと話してくれた。そんな時間が、わたしには、とてもうれしかった。
 しかし、時間が経つにしたがって、その不思議な力は、弱くなってしまった。
 ミニダックスの姿でいられる時間も少なくなってしまった。テレパシーエネルギーが弱くなってきている。ミニダックスの姿になって、彼女たちふたりと懐かしく楽しく過ごせる時間もだんだん短くなった。
 テレパシーエネルギーの限界なのだ。ミニダックスの姿でいるには、大きなテレパシーエネルギーが必要なのである。
 テレパシーエネルギーはそもそもミニダックスに許されるもので、人間には許されないのである。
 人間の姿でいる月日が長くなれば長くなるほどに
この力はいつしか消えてゆくのだろう。

 もしかしたら、わたしが人間になってしまったのももとはといえば、テレパシーエネルギーが薄れていきたせいかも知れない。
 わたしはミニダックスでいるときから、きっとこのエネルギー、この力が弱かったのかもしれない。それに気づかずに油断しているうちに、きっとだんだんと人間の姿になってしまったのだろう。

 もう人間の姿になって、ずいぶんとなる。
人間として生きてゆくのにも、すっかり慣れてしまった。
 人間の姿で生きることに何の苦労のない。むしろのん気に日々を楽しむことも出来るようになってしまった。
 いや、なってしまった、というより、なった、のだろう。

 人間として生きてゆくこともなれないうちはなかなかむずかしかったのである。わたしは、こうなってしまったからには、もうミニダックスの姿には、あまり戻らないことにした。だって、これから先は、どうせ人間として生きてゆくしかないのだから。

 それでも、どうしても懐かしいときには、わずかに残る不思議な力を使って、わたしはミニダックスにもだった。

 もう、ずいぶんミニダックスの姿には戻っていない。それだけの力もなくなってきた。それと同時に、ミニダックスであった頃の大切な懐かしい記憶さえもだんだん薄れつつあるのである。

 大切なものを忘れてゆくことは悲しい。
しかし、それ以上に悲しいことは、忘れてゆく悲しみそのものを忘れてゆくことなのである。


 「ご主人、どうしたの?」(ワンワン)

 「うらやましがってもだめよ。
ご主人はー、もー、人間になっちゃったんだからね。残念でしたー。」(ウー、ワンワンワン)

 「それよりさー、お腹減っちゃったなー」(ウーーーワーーン)

 「そうそう、おイモのスライス!おやつー。ヘイ、おーやーつー!」(ウーウーウーワンワンワン)


 このふたりは、ホントにあの頃のことを覚えていてくれてるんだろうか?

 
               (おしまい)

                       (2003.1.2)
 


(  「chaconne 」 Bach  midi by kogarashi )


( アップロード 2003年4月19日 )